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Aboriginal and Torres Strait Islander people should be aware this website contains images, voices and names of people who have died.

アボリジニ・テント大使館

1972年1月26日(1788年にイギリス船が最初にオーストラリアに到着した日を祝う「オーストラリア・デー」の祝日にあたる)、4人の先住民男性が、首都キャンベラの国会議事堂前のしばふにビーチパラソルを立てました。男性たちは、そのビーチパラソルは「アボリジニ大使館」であると説明し、先住民土地権についてのオーストラリア政府の方針への抗議活動(反対活動)をしていました。このアボリジニ・テント大使館は、今でもまだ立っています。年月を経て、抗議活動をする人たちの目標も変化していき、先住民の主権民族自決のための活動も含まれるようになりました。

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  1. 1960年代と70年代にテント大使館で議論された先住民の土地権に関する2つの裁判とは、どのようなものでしたか?
  1. 当時のマクマホン政権のどのような行動が、アボリジニ・テント大使館の設立へとつながったのでしょうか?
  1. アボリジニ・テント大使館とは? そして、先住民の人々はなぜ、それを「大使館」と呼んだのでしょうか?

先住民の土地権はなぜオーストラリアで全国的な問題になったのでしょうか? 

先住民の人々は、彼らが伝統的に住み保有してきた土地に対する権利を取り戻そうと、イギリスによるオーストラリア大陸の植民地化以来、戦ってきました。1960年代と70年代には、土地権のための活動が全国的に注目を集めるようになりました。

この中でも、土地権に関する特に重要な2つの裁判が、北部準州で開かれました。1つ目は1966年に始まったもので、ウェーブ・ヒルという広大な牧場で働いていたアボリジニのグリンジの部族の作業者や家政婦とその家族、合計約200人が、労働条件の改善を求めてストを起こしたことによる裁判です。グリンジの民は、給料が安いことや、労働環境が悪いこと、そして彼らが伝統的に住み保有してきた土地への権利を失ったことに対して抗議活動(反対活動)をしていました。この抗議活動は、9年間続きました。

2つ目の裁判は、北部準州の最高裁判所が1972年に、アーネムランド内のアボリジニ・グループのひとつであるヨルングの民に対して、彼らが主張した土地権を認めないという決定を下した、というものです。一方この裁判では、石炭などの地下資源を掘り出す会社(資源会社)が、ヨルングが住んでいた土地で資源を掘り出すことを認められました。そこにはヨルングにとって神聖な場所に加えて、狩りや食料集めに使われていたエリアも含まれていました。

土地権を求める声が高まっていたことを受け、ウィリアム・マクマホン首相率いる当時のオーストラリア政府は、1972年に新たな土地権政策を発表しました。その政策では、先住民の人々が伝統的に住み保有してきた土地で生活したりできるように、その土地を50年間借りることを申し込むことが認められましたが、その土地に眠る地下資源の権利と森林についての権利は含まれていませんでした。このことに、多くの先住民の人々が怒りを覚えました。

「オーストラリア国会議事堂前のしばふの上で、誇らしく風にはためく旗たちを掲げたアボリジニ大使館は、オーストラリア政治の歴史上もっとも成功したPR活動や議会への主張活動(ロビー活動)のひとつとなったのだ。」

 

ジョン・ニューフォング、先住民誌 Identity、1972年

テント大使館はどのように設立されたのか?

1972年1月26日、4人の先住民男性が、マクマホン首相の土地権に関する決定に抗議し、首都キャンベラの議事堂前のしばふにビーチパラソルを立てました。彼らは「アボリジニ大使館」を設立しているのだと主張しました。先住民は自分の国であるオーストラリアにいながら、まるで外国人のような気持ちにさせられている、というのです。

View from Parliament House of police and protesters at a land rights demonstration, Canberra, 30 July 1972.

ビーチパラソルはすぐにテントに替わり、先住民の血を引く者も、そうでない者も混ざった抗議グループが、そこでキャンプ生活を始めました。当時のオーストラリア政府は抗議グループに対して立ち退きを命じ、警察も出動して何度かグループを退去させましたが、彼らは戻ってまた抗議しました。

テント大使館にいたグループはデモ行進をして、政治家や一般の人々に向けて、土地権について話しました。

テント大使館は、1972年から1992年までの間、キャンベラ周辺で何度か場所を変えながら続けられました。

<p><span style="font-family:&quot;Yu Gothic&quot;,sans-serif;font-size:16pt;line-height:130%;" lang="JA">アボリジニ・テント大使館で使われたプラカード。1972年</span></p><p><span style="font-family:&quot;Yu Gothic&quot;,sans-serif;font-size:12pt;line-height:130%;" lang="JA">オーストラリア国立博物館</span></p>

<p><span style="font-family:&quot;Yu Gothic&quot;,sans-serif;font-size:16pt;line-height:130%;" lang="JA">アボリジニ・テント大使館で使われたプラカード。1972年</span></p><p><span style="font-family:&quot;Yu Gothic&quot;,sans-serif;font-size:12pt;line-height:130%;" lang="JA">オーストラリア国立博物館</span></p>

1990年代に、アボリジニ・テント大使館になにが起きたのか? 

1992年、設立当初の抗議活動から20周年のタイミングで、テント大使館はもともとの設立場所である旧議事堂前のしばふの上をずっと変わらない固定の場所として、あらためて設立されました。また、1995年には、歴史的な場所としての重要性が認められ、その設立場所が「国家遺産登録」に登録されました。

今日のアボリジニ・テント大使館は、どんなことを実現しようとしているのか?

テント大使館で抗議活動する者たちの目指すものは、年月を経て変化してきました。その中で、テント大使館が主張する一番の問題はこれまでも、そしてこれからも、オーストラリア大陸に対して先住民が持つ主権と、先住民の自決権についてのものなのです。

Findout icon ここで学んだことは?

  1. 1960年代と70年代にテント大使館で議論された先住民の土地権に関する2つの裁判とは、どのようなものでしたか?
  1. 当時のマクマホン政権のどのような行動が、アボリジニ・テント大使館の設立へとつながったのでしょうか?
  1. アボリジニ・テント大使館とは? そして、先住民の人々はなぜ、それを「大使館」と呼んだのでしょうか?

バナー画像:1972年1月26日(オーストラリア・デー)、設立当初のアボリジニ・テント大使館― 左から マイケル・アンダーソン、ビリー・クレイギー、バート・ウィリアムズ、トニー・クーリー

撮影:ノエル・ハザード、ミッチェル図書館、ニュー・サウス・ウェールズ州立図書館、トリビューン紙/SEARCH基金